反面教師という言葉があります。「悪い見本として学ぶべき人」です。「ああはなりたくない」という強い思いが人を成長させます。しかし、そう思えば思うほど、「在りたくない姿」に近づいてしまうことがあります。
一方で「在りたい姿」を強く思い描くことで、それにとらわれてしまうこともあります。これだ!と信じる考え方にとらわれてしまうと、盲目的になり、柔軟性が失われ、生きづらくなってしまいますよね。ここでは、どちらにもとらわれないで生きる方法を考えてみたいと思います。
私はこれまで「在りたくない姿」を強く描き、そこからの斥力(反発力)を生きるエネルギーに変えてきました。古くから私を知る人は、悲哀の眼差しで私を「反発心の人」と呼ぶでしょう。「あれほどまでに強く、仮想敵国を作らなくてもいいのに」と思いながら… 「レジリエンスが高い」などと表現すれば恰好良く聞こえますが、これはとても疲れる生き方です。「在りたくない」と思えば思うほどそうなるので、自己嫌悪に襲われます。これは坐禅のとき「考えるな、考えるな」と思えば思うほど雑念が沸き、「在りたくない姿」になってしまうことに似ています。
ならば、「在りたい姿」を強く描けば良いのでしょうか? 私は前職において自部署の経営理念をMission-Vision-Valueの形でまとめ、これを「在りたい姿」として提示してきました。「どう? この理念には誰もが賛同するよね? 疑いようがないよね? だから皆でこれを目指そう!」と畳みかけていました。するとどうでしょう? それを見せられた人は、「ん?正しいかもしれないけれど、それを信じ込むのは危険じゃない? 宗教みたいだよね?」と反発するんです。私は「宗教で何が悪い! 歴代の名経営者は独自の宗教観や哲学を持っていたんだぞ!」と反発をしていました。
「在りたい姿」にとらわれ過ぎることは危険です。とらわれが悩みを生むのであり、仏教の根本には、どちらかに偏ることを嫌う中道の精神があると私は思います。「在りたい姿」についても「これでいいのか?」という批判的思考を持って、教義を見つめてこられたのではないかと思うのです。「ありのままで良い」と「修行をしなければダメだ」という考え方の間で揺れ動きながら、どちらにもとらわれない無分別の世界を感じていく…
仏教における揺らぎを考えていると、永平寺で座禅体験をさせていただいた際、導師に言われたことを思い出します。「すっと立てた背筋が、前後左右に僅かながら揺れている様子を感じて下さい」と言われたのです。ピタッと止まっていることが正なのではなく、常に揺れ動きながらも今ここにある… 正に諸行無常を感じ、それがとても心地良いのです。
倒立振子ってご存じですか? 私は大学で制御理論を学ぶ際、この装置で実験をしたことを良く憶えています。皆さん小中学校の掃除の時間、長めのホウキを掌に立ててバランスを取る遊びをしたことがあると思いますが、これと同じ。坐禅中の背筋も倒立振子と同じで、ふらふらと揺れているんですね。しかし制御パラメータを上手く設定すると、外乱にも動じず、僅かに揺れつつも倒れません。
私が目指しているのは、小刻みに揺れつつも、それを愉しみながら、スッと立つ… そんな状態なのです。「在りたくない姿」は、ちらっと横目で見るくらいにし、「在りたい姿」にもとらわれない。むしろ批判的思考法(クリティカルシンキング)で「在りたい姿」を見る。これが、どちらにもとらわれずに生きる方法ではないかと、私は考えています。□
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