はじめに ー これは「解決策」を示す記事ではありません
この記事は、キャリアの悩みをすぐに解消する方法や、
次に取るべき行動を示すものではありません。
むしろ、
私たちがキャリアを考えるときに、
無意識のうちに前提としている「ものの見方」
について、少し立ち止まって考えるための文章です。
特に、技術者として真面目に働いてきた人ほど、ある時ふと感じる――
- 成果は出しているのに、満たされない
- 評価されても、安心できない
- このまま進んで、本当にいいのだろうか
そんな感覚の背景には、共通した構造があります。
技術者は「成果で語る」ように育てられてきた
技術者の仕事は、成果が比較的わかりやすい世界です。
- 正しく動くか
- 要求仕様を満たしているか
- 納期や品質を守れているか
これらは、仕事としてとても健全な評価軸です。
問題を解き、期待に応え、価値を提供する。
多くの技術者は、その積み重ねによって信頼を得てきました。
だからこそ、
「成果を出すこと=自分の価値」
という感覚が、いつの間にか強く根づいていきます。
それ自体は、決して悪いことではありません。
ドーパミン的な満足と、その疲労
成果を出したとき、私たちは達成感や高揚感を得ます。
- 問題が解決した
- 認められた
- 評価された
研究者であれば、学会発表で手応えがあったときの、”あの感覚”は忘れがたいものでしょう。
こうした感覚は、心理学的には「ドーパミン的な満足」と言われます。
ただ、この満足感には特徴があります。
- 瞬間的であること
- 外部評価に依存していること
- 次の成果を求め続ける構造であること
成果が出ている間は、問題になりません。
しかし、成果が出にくくなったとき――
役割が変わったとき、年齢を重ねたとき、環境が変わったとき――
この軸だけで生きていると、人は静かに消耗していきます。
「自分は、何者なのだろうか」
そんな問いが、成果の隙間から顔を出し始めます。
もう一つの軸 ― オキシトシン的つながり
人の心を支えているものは、成果や評価だけではありません。
- 誰かと理解し合えている感覚
- 安心して話せる関係性
- 役割を超えた信頼
こうした「つながり」の中で生まれる安定感は、しばしば「オキシトシン的」と表現されます1。
技術者であれば、他人に自身のやりたいことを説明し、理解してもらえ、その実現に向けて協力・賛同してくれるとなったときに感じられるもの…。
これは、何かを達成したから得られる満足ではなく、
「ここにいていい」と感じられる感覚です。
技術者のキャリアにおいても、この軸はとても重要です。
- 自分の考えや迷いを、そのまま言葉にできる
- 正解を出さなくても、話してよい
- 評価される前の自分として、存在できる
こうした経験は、成果中心の世界では、意識しないと得られません。
「今ここをよく生きる」というキャリアの捉え方
キャリアというと、どうしても未来の話になりがちです。
- 5年後どうなっているか
- このまま進んでいいのか
- 次の選択は何か
もちろん、それも大切です。
ただ、未来ばかりを見続けていると、
「今の自分」が置き去りになることがあります。
「今ここをよく生きる」とは、立ち止まることでも、諦めることでもありません。
- 今、何に違和感を感じているのか
- 何に疲れていて、何に安心するのか
- どんな関わり方を大切にしたいのか
そうした問いを、誰かとの関係の中で丁寧に扱うことです。
この土台があると、キャリアの選択は“焦り”ではなく、“納得”から生まれやすくなります。
相談するという行為の、もう一つの意味
キャリア相談というと、
「問題を解決する場」
「答えをもらう場」
だと思われがちです。
けれど、実際にはそれ以前に、
- 一人で抱え続けてきた思考を外に出す
- 評価されない状態で話す
- 自分の言葉を、誰かに受け止めてもらう
という体験そのものに、大きな意味があります。
多くの場合、人は「問題があるから相談する」のではなく、
つながりを失った状態が続いた結果、苦しくなるのです。
おわりに ― キャリアは「うまくやる」ものではなく、「よく生きる」もの
成果を出すことを否定する必要はありません。
技術を磨くことも、評価を得ることも、大切です。
ただ、それだけに人生を預けてしまうと、どこかで無理が生じます。
キャリアは、「正解を選び続けるゲーム」ではなく、
自分なりに、よく生きようとするプロセスです。
もし、これまでの考え方を少し見直してみたいと感じたなら、
その感覚自体が、あなたのキャリアの土台が動き始めている証拠かもしれません。
- 精神科医の樺沢紫苑先生は、下図に示す「人生の3つの幸福」を提唱しておられます。心と体の健康(セロトニン的幸福)が保たれた状態で、オキシトシン的幸福感が得られれば、ドーパミン的幸福はほどほどで良い。なぜならドーパミン的幸せは一過性であり、中毒性もあるからです。 ↩︎

関連記事(あわせて読みたい)
自分を理解しようと努力してきた人ほど、
「それでも楽にならない」という感覚を抱くことがあります。
自己理解の先にある、もう一つの大切な視点については、こちらの記事でも触れています。
□


コメント