瞑想の意味とマクナマラの誤謬 ~計測できないものを感じる大切さ~

今ここをよく生きよう
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心穏やかに過ごすために

仕事を辞めて約一か月半経ちました。会社の元同僚と接すると、「今何やっている?」、「仕事はあるのか? 大丈夫か?」と良く心配されます。なんやかんやで仕事に力を入れていたので、自身でも、「仕事が無くなってしまったら、どうなるだろう?」と内心冷や冷やしていました。新しい仕事(お金をいただけるお仕事)は未だ無いのですが、不思議と穏やかな気持ちで過ごしています。そのように出来ている理由はいくつかあると思います。

  • このブログやグループLINEを通して、アウトプットを続けていること
  • 家庭菜園などを通して花鳥風月に触れる機会があること
  • 比較的規則正しい生活を続けていること
  • キャリアコンサルタント関係の勉強会やセミナーに継続的に参加していること
  • モーニングルーティン(瞑想&写経)を続けていること

逆に心乱されるキッカケもあります。特に企業内キャリアコンや組織開発のニュースを目にすると、「あの時はこうだったよな…」とか、「そんなこと言っても、なかなか上手くいかないんだよ」などと、過去の経験が次から次へと蘇り、血圧が上がってきます。ああ、もう辞めたんだから気にしなくていいんだ…と胸を撫でおろします。寝ているときに思い出すと、再び寝つけなくなってしまうことも正直あります。

しかしながら、モーニングルーティンの中で実施しているマインドフルネス/コンパッション瞑想のお陰で、精神的なドツボにはまることは無くなったと言えるでしょう。むろん一日の中、一週間の中、一か月の中で波はありますが、その波の大きさを客観視できるようになったと言えるでしょう。「ああ、今日は良くないな。仕事探しは、ほどほどにしておこう。」とか、「今日は乗っているな。ガンガンアウトプットしよう!」とか、自分の心身の状態への感度が上がったように思うのです。

マクナマラの誤謬

そんな中、昨日NHKで「映像の世紀バタフライエフェクト ベトナム戦争 マクナマラの誤謬」を視ました。マクナマラの誤謬(ごびゅう)とは、「数字にばかりこだわり物事の全体像を見失うこと」を言うのだそうです。米国の国務長官であったロバート・マクナマラが数字にこだわるばかり、泥沼の戦争になったことを描いた話でした。エンディングで紹介される、社会学者ダニエル・ヤンケロビッチの言葉が胸に刺さりました。

20世紀になって私たちは数字で測れるものはすべて計測するようになりました。マクナマラの数字第一戦略はアメリカの政策を正しく導けませんでした。計測できるものは計測して、計測できないものは忘れようと考えるのは致命的な失敗への第一歩なのです。これは未来の私たちにも大きな危険をもたらしうるのです。

(社会学者ダニエル・ヤンケロビッチの言葉より)

瞑想の意味

人は多かれ少なかれ数値化することで安心します。数値化しなかったことで沢山の失敗をしてきたからです。しかし数値化されたものばかり拘ると、目に見えないものは軽視してしまう傾向にあるようです。自分自身の身体的・精神的な状態についても同じでしょうね。

「身体の状態は、〇〇ウォッチで全て数値化出来る!このデータに従えば大丈夫!」などと手放しで喜ぶことは危険。自分自身のことは、自分自身で感じられるように神経を研ぎ澄ますことこそ、瞑想の意味だと私は考えています。ちなみに瞑想に意味を求めてしまうこと自体、おかしいのですが…(笑) □

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