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  3. 自分は自分のものではない ~宗教とは自らの身体によく生きてもらうための知恵~
このコラムでは、「自分は自分のものではない」という感覚の大事さについて説いています。
所要:3分

ひとは自分と他者、内と外を区分し、外のものが良いか悪いか見極め、それを取り入れるか否かを判断しています。判断に迷うとき悩みが生じます。しかし内外の区別ほど曖昧なものはないとも言えます。皮膚一枚を隔てて内外を区別していますが、人間は常に外界とやり取りをしており、空気や水蒸気は身体の内と外を循環しており、境目などないと言えます。外を無くして内は無いのです。

自分の身体は自分が所有しているようにも思えますが、体の中には無数の細菌が居て、その菌の存在無しには生命活動などあり得ないのです。パワハラ、モラハラのワンシーンとして、「”菌”扱いされ、侮辱された」なんて話がありますが、言った側も言われた側も、どちらも菌の塊みたいなものです。

私はモーニングルーティンとして瞑想をしていますが、その最中、上記のような感覚を味わいます。丹田を中心とした身体は、ただただ生きようとしているのに、意識というものが外界を認識し、ああ辛いだの、悲しいだの言っているだけなのではないかと思えるのです。意識が身体をコントロールしているなんて思うのは愚かなこと。この意識という厄介なものは、この身体に住まわしてもらっているのだから、つべこべ言わずに身体をいたわっていれば良いのだ…そんな風に思えるのです。

仏教ではこれを「諸法無我」といいます。私がこの言葉を知ったのは高校生のときでした。「非まじめ」のすすめという本で、ロボット工学者の森政弘先生が説かれていました。仏教に造詣が深い、ロボコンの創始者です。あれから40年経ち、ようやとこの感覚を少し味わえるようになったのだなあと思います。

今回はとても宗教的な、感覚的なお話しを文章にしてみました。宗教的な話をすると、毛嫌いする人も多いかと思います。しかし宗教とは頭でっかちになった人間が、自らの身体によく生きてもらうための知恵だと、私は捉えています。□

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