1. ホーム
  2. 今ここをよく生きよう
  3. 宗教とカルトを分かつもの ~恐怖心に訴えて人を動かすのはダメ~
このコラムでは、NHK「こころの時代」にて紹介された、「宗教とカルトを分かつもの」について論じ、「恐怖心に訴えて人を動かす」ことの危険性を考えます。
所要:3分

旧統一教会と政治の関係が問われる中、NHK「こころの時代」で、6人の専門家による討論がありました(YouTube)。この中で若松英輔氏が、宗教とカルトを分かつものとして、以下の3条件を挙げています。①恐怖、②搾取、③拘束だそうです。

恐怖とは「この教えを信じないと地獄に落ちるぞ!」などと恐怖を与えることです。搾取とは「献金せよ」と圧力をかけ、持たざるものから自由なく奪うことです。拘束とは「もう抜けられないぞ!」と退会を拒むことです。宗教は出入り自由でなければならないのです。伝統宗教でも、この3つのうち一つでも当てはまったら、カルト化を疑わなければならないというのです。

マインドフルネスやWell-beingの取り組みは、宗教色を取り除いたものですが、心の奥深いところに働きかける意味では、スピリチュアルな面があります。私はそれでいいと思っています。但し、それらの効用を過度に謳うことによって、「マインドフルネスやらないと幸せになれないぞ!」とか、「Well-beingでなければ、イノベーションを生み出せないぞ!」とか、恐怖心を煽るようなことになっていないかと改めて考えさせられました。

宗教に限らず「恐怖心に訴えて人を動かす」のはダメですね。よほど普段から意識していないと、いとも簡単に乱用してしまいます。「幸せになりたいのは人として当たり前だよね?」と決めつけてはいけないですね。それを望むか否かの選択は常に本人にあるべきなのです。

さて、「恐怖心に訴えて人を動かすこと」の危険性については、技術者倫理を考える上でも常に言われることです。技術者による不正問題が起きた背景には、必ずと言ってよいほど恐怖心があるのです。

  • 「この製品の性能が未達だと、左遷されるかもしれない」
  • 「今、不具合を上司に報告して製品発表が遅れたら、クビになるかもしれない」
  • 「予想通りのデータが出なければ論文が書けず、学位が取れないかもしれない」

失敗するかもしれない、恥ずかしい思いをするかもしれないという恐怖心は、時に向学心につながり、それが大きな成果を生むこともあるでしょう。私も「恥ずかしい」という思いをバネに生きてきたので、とてもよく分かります。しかし過度な恐怖心は、人を不正に走らせたり、他者に対する攻撃となって現れることがあります。一時的には解決策になるように思えても、本当の意味では何の解決策にもならないのに…です。

パワハラや技術不正を生む原因は、とても身近なところにあるのです。よくよく意識しなければなりませんね。□

\ 気に入ったら、いいね&シェア下さい/