来談者中心カウンセリングにおいては、相談者自身が悩みの本質に気付くよう、カウンセラーからのアドバイスは控えめにします。お化け屋敷に同行はするが、その先の解決策は来談者自らが選択していくという、非指示的なカウンセリングスタイルです。
私は技術系研究職としてのキャリアを歩んできたため、部下の相談に乗るときは何らかのアドバイスをしなくてはならない…と当然のように思ってきました。また、自身が上司に報告・相談する際も、自分なりの考え方を持って、その場に臨んでいました。「貴方はどう思う?」と問われたとき、手ぶらでは許されないからです。そんな業務を続けるうち、「自分なりの考え方を持つこと」を自身に課し、「自分なりの考え方が無い人」を疎んじるようになっていきました。そうやって、”自己主張の強い私”が形作られてきたのです。
自己主張の強い私が、”来談者中心カウンセリング”を行うことは容易ではありません。「悩みがあるのなら、~したらどうですか?」とアドバイスしたくなる気持ちを、ぐっと堪えねばならないのです。前職において「カウンセラーは聴くに徹するのだ!」と私が”主張する”と、同僚は「お前のような自己主張が強い人間が、他人の話を聴くだなんて…」と笑われたものです。結局その後、”自己主張の強い私”の処に相談に来る人は僅かであり、そんなイメージを払拭することの難しさを痛感することになりました。
但し、その前から、私にはずっと続けていることがありました。”コンパッションの瞑想”です。これは慈悲の瞑想とも呼ばれるもので、他者および自身が、ありのままであることを許していくものです。多様性を受容れる訓練と言ってもいいでしょう。「こう在らねばならない」を手放すのです。この訓練を続けているうち、カウンセリング中、自身の中の暴れ馬を抑える必要が無くなってきました。
しかしながら、新たに困った現象も生じてきました。「カウンセリングはこうあるべき」、「キャリアコンサルタントはこうあるべき」という、べき論が再び頭をもたげてきたのです。自身が求めているカウンセリングとは違うスタイルに接したとき、「それは違うでしょー!?」とモヤモヤしてしまうのです。自分が信じているスタイルを侵されるような気分になるのです。
ここで生じた、「在りたくない自分の姿」からの斥力を使い、中道に戻ることは可能でしょう。仮想敵国に負けないよう歩んでいくのです。但し、この生き方はとても疲れる生き方であることも私は経験しています。『在りたくない』と思えば思うほど、そこに捕らわれてしまいますからね。
であるなら、「カウンセリングはこうあるべき」に対し、「本当にそれでいいのか?」と批判的思考(クリティカルシンキング)をしてみる方が良いのではないかと考えています。「こうした方が良いよね?」と考えるのです。
このブログでは「こうあるべき」といった”主張”が多いかとは思いますが、常に批判的思考を持って、偏りの無い在り方を模索していきたいと考えています。□
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